大阪は、昭和19年(1944年)から大小合わせて50回を超える空襲に見舞われました。
度重なる空襲で市街地が焼け野原となりましたが、大阪の人々は戦後復興の道を希望いっぱいに一歩ずつ前に進みます。
明日の糧を求めて焼け野原となった大地を耕し復興に向けて奔走するうちに、廃墟と化していたこの土地におびただしい数のバラックが建ち、それがビルへと変わっていくことになります。

戦後復興のシンボル

戦後まもなく、焼け野原からの復興期に再建され有名になったのがグリコ株式会社の巨大看板でした。(「道頓堀グリコサイン」はもともと1935年に設置されたものですが、戦火が広がる中、鉄材供出のため一旦解体されたという経緯があります。)

1955年に再建された二代目の広告塔の中心にデザインされた、両手を挙げて力強く走るランナーの姿は多くの人々に夢と勇気を与え、戦後復興のシンボルとなり全国的にも有名になっていきます。
デザインの派手さとあいまって広告的な効果だけでなく街を活性化する原動力となりました。
その後、なんばや心斎橋・道頓堀といったミナミエリアを中心に、個性的な看板が増えていくことになりましたが、それはミナミエリアが平面的な立地で競合他社と勝負する必要性があったという立地的な要因が関係していると考えられます。

大阪の看板文化

ところで大阪には他の地域にはないユニークな文化が多く存在することはよく知られていますが、大阪独特の看板文化もその一つと言えます。
大阪の看板を語る上で欠かせない特長がその大きさと派手さ、立体的な看板の多さですが、これらは「目立つこと」「おもろいこと」を重視する大阪ならではの府民性を象徴的に表しているものと言えます。

大阪の看板が象徴するもの

SNSの普及により国境を越えこれまで以上に全世界へ発信されることとなった大阪の看板。
今や大阪のランドマークとなり、看板そのものが観光の目的になるほどの存在となりましたが、その根底にあるのは、グリコの看板のランナーが象徴する、バイタリティと活力にあふれ、夢に向かって絶えず進化し続ける大阪人そのものの姿なのかもしれません。